■後に第二次声優ブームなどと言われる空前のアニメブームの中で、アニメキャラクターの声を演じる仲間達が集まり「スラップスティック」なるバンドを結成し、様々なイべントで演奏し、読売ホールや都市センターホールでコンサートを開いた。声優ユニット(バンド)のはしりである。
ポニーキャニオンから十数枚のアルバムをリリースし、楽譜集をはじめ各種関連グッズまで販売された。ラジオ番組を持ち、NHK「レッツゴーヤング」やワイドショー、バラエティーなど多様なテレビ番組に出演する。
さらにテレビドラマ「不思議犬トントン」にバンド単位でゲスト出演したり、ドラマ「いじわる婆さん」やアニメ番組のテーマ曲なども歌う。声優の顔出しや音楽活動は、今時は当たり前だが当時は珍しかった。
年間二枚のアルバムをリリースし、それに合わせて年間二回のコンサート(ニューイヤーコンサートとサマーコンサート)が開かれた。いずれのシーズンも東京と名古屋の二カ所で行われた。
メンバーの所属事務所はバラバラで、ソロ活動はそれぞれの事務所で仕切っていたが、バンドに関するいっさいのプロモートは(株)ムーブマンというテレビ番組制作会社が仕切っていた。社長は自らも声優として高名な羽佐間道夫さんであり、バンドの仕掛け人でもあった。
十年以上展開した音楽活動の最初からのメンバーは野島昭生(ベースギター、「宝島のグレイ)、曽我部和行(リードギター、「野球狂の詩」の火浦健)、古川登志夫(リズムギター、「うる星やつら」の諸星あたる)、古谷徹(ドラムス、「巨人の星」の星飛雄馬)、三ツ矢雄二(キーボード、「タッチ」の上杉達也)で、途中からキーボードは三ツ矢が脱けて、鈴置洋孝(「機動戦士ガンダム」のブライト)に替わった。グループ立ち上げ時には神谷明(ベース、「シティーハンター」の冴羽遼)もいた。リーダーは野島昭生だった。
それぞれバンドとは別にソロアルバムをリリースしたり、番組主題歌や挿入歌などを歌ったりしていたが、本業の声優としても、各人が忙しく働いていた。バンド単位では、練習するにも仕事をするにもスケジュール調整が難しく、全員が揃う時間を、パズルを解く様にして捻出しなければならなかった。
レコーディングは一口坂のキャニオンのスタジオで行われることが多かったが、コーラス部分などは、それぞれが空いている時間に出かけ自分のパートだけ収録した。二千人以上の会員からなるファンクラブも出来、別にメンバーそれぞれにも個人のファンクラブがあった。(中略)
スラップスティックの活動期間は実質十年であろう。あろうというのは、解散の時期が判然とせぬまま、自然消滅の如く、リタルランドしフェードアウトするように休眠状態に入り、今日に至っているからである。
しかしこの事実こそが、このグループの特質を能弁に物語っているのであり、そしてこれで良いのだ、良かったのだと、僕には思えてならない。ロマンティシズムに過ぎるかも知れないが、ファンの皆さんでさえもが、全てを承知でそのことを容認し、その様な幕引きにつきあってくれたのだ、と思いたいのである。
このグループの劣等生、末席を汚していた僕は、なればこそ、このグループへのこだわりの最も強い人間になったのではと自己分析している。ただそのことにしばらくは自分でも気づかなかった。
あくまでも僕個人の思い入れにすぎないが、大袈裟に言えば、鮮烈で濃密な思い出だからこそ緩やかに封印したかった、つまり完全消滅ではなく郷愁として心に残しておきたかったということではあるまいか。しかしもはや現実を直視するに十分な時が流れた。
このバンドの全盛期とも言うべき頃に、某アニメ誌に連載エッセーを寄稿していたことがある。四十回、三年四ヶ月の長きにわたった「古川登志夫の糸電話」で、連載第五回目に「まいすらっぷ」なる平仮名のサブタイトルを付して、このバンドに関するエッセーを書いている。
これを書いたとき、やがてこのグループも歴史の波に飲み込まれ消えゆく時の来ることを予見している様で、又その時の気負いや拘りも垣間見える様で、我ながら興味深い。ちなみにこの時点でのメンバーは、野島、曽我部、古川、古谷、三ツ矢の五人だ。
以下がその創作風エッセーである。老人となった古川の回想という形で書かれているが、実はバンド活動がピーク時に書いたものである。
「兵どもが夢の跡………」コンサートが終了し、照明機材を取り外している数人のスタッフを残して、ステージは殆ど空舞台になっている。山のように残された紙テープ(今では禁止だそうだが、当時は観客がアーティストにテープを投げ声援を送るのが普通だった)を精一杯抱え込んではゴミ箱に押し込んでいるスタッフを目で追いながら、そのソフトを被った白髪の老人は舞台の袖で呟く。
「もう二十五年にもなるだろうか。ステージがハネて、丁度こんな状態のところへ、メーキャップを落とし終えた五人(野島、曽我部、古川、古谷、三ツ矢)がやって来て(この時点では鈴置は参加していなかった)「お疲れ様でした~、ありがとうございました~」とお礼の言葉を述べたっけ。コンサート終了後の、このスタッフへの挨拶だけは、どんなに疲れていても元気に叫んだもんだった……あの四人は今頃どうしているだろうか?「スラップスティック」今思えばその名の通りドタバタでごった煮の様な不思議なバンドだったなあ……」
老人は、四人の顔を一人一人思い出そうとして目を閉じる。千五百人ものファンの嬌声と共に、あの頃の顔が一人一人脳裏をよぎる。グループサウンズの全盛時代が終わって十年、彼らはGSを回想としてではなく、新たなるものとして追い始めたのだった。
そしてある期間、アニメファンという特定多数の少女達に支えられて音楽業界のあるエリアを嵐の様に席巻し、やがて時の流れに紛れ込んでいった………いつの間にか………。
以上、ここまでの冒頭部分は創作のスタイルで書かれている。では先を続けよう。第一段落。
野島「ウオーッス!」
曽我部「おはよう!」
古谷「おはようございま~す!」
古川「あ~眠い」
三ツ矢「あたしきれい?」
集まって来た時の挨拶からしてこれだけの違いがある。集合時間の十五分前に来ている野島。五分遅れの古川。十五分遅れの曽我部。一時間遅れの古谷。来ればめっけもんの三ツ矢。
メンバーの名誉の為にあえて言えば、無論毎回そうだったという訳ではない。この逆順の場合もあったろう。要するに忙しい連中で、バンドの練習時間に全員揃うことは容易ではなかったのである。
五人とも、本来は役者であり、所属事務所も、それぞれのレギュラー番組の拘束時間帯もバラバラ。バンド活動だけ一括して預かっているプロダクション「ムーブマン」のマネージャーの口癖は「スケジュール調整は丸でパズルだ。これじゃファンに喜んで貰える様なプロモートが出来ない」だった。
この頃のコンサートのパンフレットに「僕たちの十年後は?」というメンバー一人一人のコメントが載っているのがある。
野島「十年後、スラップは多分、今の形はなしていないであろう。今のメンバーはファミリー的なつき合いをしている」
曽我部「全く予想出来ないんだけれど、僕の歳を考えると、まあ生きてはいるだろうな。役者をやめているかも知れないし、とにかく今僕は一生懸命生きていることだけは確かだと思う」
古川「自然食の商売が成功した野島の富を元手に曽我部はブライダルセンター、古谷は色白クリームの開発、三ツ矢は「女性不要論」を著しベストセラーとなり、それぞれ成功。僕はその四人を従えて宇宙にワープ、銀河をまとめよう」
古谷「足は少し長くなり、鼻も高くなって、つぶらな瞳はすずしげになる。十年後にスラップスティックのことを知っている人が何人になろうと、スラップの仲間が好きだから中年になったみんなとスラップサウンドを演奏しているだろう」
三ツ矢「エイリアンに襲われてスターウォーズしているのだ。未亡人下宿を経営してるかも知れない」
とまあ、大体こんなことを書いている。以上、第一段落は、当時の実際のパンフレットからの引用である。さらに先を続けよう。第二段落。
趣味で始めたバンドに買い手がついた。本質的な買い手はファンであろうから、そのニーズが無くなれば、元の趣味のバンドに戻るのは当然だ。その趣味のバンドだっていつまでも続くとは限らない。そうなった場合でもやっぱり、出会ったこの仲間にこだわり続けたいと僕は思っている。
時のうつろいは時として残酷なものである。今は堅固に見えるこの五人組の素敵な人間関係も、何らかの理由で突然崩壊する時が来るかもしれない。しかし僕にとってスラップスティックはとてつもなく大きな存在だ。
ある意味、解放区であり、ライバルとの競争の場であり、多くのファンの皆さんとの出会いの場である。バンドに対する価値観や思いは五人五様であろうけれど、この素敵な連中とのめぐりあいは僕の人生の宝だ。
以上、第二段落は、バンドや仲間に対する私感を述べている。 では第三段落。
劇場の出口まで来て老人は、はたと足を止めた。自分と同じ様な年格好の四人の老人が立っていた。ソフトを脱いで一人ずつ名乗りをあげる。
「ベースの野島だよ」
「リードギターの曽我部です」
「ドラムの徹ちゃんだ!」
「キーボードの雄二よ!」
老人は自分もソフトを脱いで「眠い………古川です」と言った。と、あくまで自分を主役にしたかったらしいのだ。目立ちたがりだねえ!ま、三ツ矢の代わりに鈴置だったら「遅れてごめん、彼女がしつこくて、鈴置です」なんてところかな。もてる男だった……ということになっている。もてるふりしている連中ばっかりだから、本当のところは分からぬ。