「劇薬処方箋」〜声優 ・古川登志夫の 演劇的自伝エッセー〜
(演劇雑誌「テアトロ」のカモミール社・刊)
 

■まえがき

1 ドクダミは双葉よりクサい演技
2 故郷の、山に向かいて、言いたい放題
3 カインの末裔の如きデラシネの旅へ
4 どん底から引き上げてくれた「どん底」
5 江古田村、我が青春のモニュメント
6 舞台、テレビ、そして経済
7 キャバレーで劇薬盛られる
8 山田清作との邂逅
9 才気溢れる人達との出会い
10青二プロダクションとムーブマン
11劇団青杜、故郷の青い杜(もり)
12只今新薬処方中
                
■あとがき  
 
 
 
 

■まえがき
薬は毒でもあるから、処方によっては生死に関わる。取り扱いには十分の注意が肝要だ。

「にも関わらずうかうかと、手を出したのが運の尽き、劇薬濫用常習者、げに恐ろしや禁断症状、さては一服盛られたか〜」と、気付いた時には依存症、演劇との腐れ縁はもはや断ちがたいものとなっていた。戯れに「劇」はすまじ、文字通り「劇」薬成分を含んでいる。

「演じる」。僕にとっては余力を残しては出来ぬ苛酷な仕事、だからこそ為し得て感得出来る至上無比なる達成感。その振幅には、強い習慣性がある。古来、三日やったらやめられぬ商売と言われる所以か。

ともあれ薬でも毒でもある「劇」との出会いが、舞台俳優であり声優である僕の人生を決定付けた。そして薬から毒までの振幅そのままに、歓喜から悲哀まで、正気から狂気まで、微生物から巨大生物まで、神から悪魔まで、と様々な役を演じ、そして現実も又、清濁併飲、喜悦呻吟、玉石混淆、滑稽懊悩、と格好良くばかりはない、三文小説の如き我が人生を生きている。

だが腐れ縁とは本来、離れよう、縁を切ろうと思っても断ち切れない好ましくない関係を指すが、その実、相性がいいから切れずに続いている関係だったりはしないか。

思えば、好きな事やりたい事を、好きなようにやりたいようにやり続けている。この「歌舞く人生」に、実は感謝しているのである。強い習慣性を持つ向精神性劇薬を、僕の人生の為に処方し投薬してくれたのは一帯誰なのか?これは大いなる謎だ。謎なら解かねばなるまい。


1 ドクダミは双葉よりクサい演技
誕生より今日までを、顧みることにしよう。そうすれば謎解きのヒントくらいは、自ずと見えてこようというものだ。

こんな話を聞いたことがある。記憶にあろう筈はないが、たらちねの母の胎内より出し時、産湯につかりつつ放尿し、産婆を笑わせたというのである。この、単なる生理現象に父は特別の意味を付加した。「この子は只者ではない。将来人前で何かをやって見せる者になるだろう」と。

又、これも記憶にあろう筈はないが、授乳の時、よく乳首を噛み、母を驚かしたというのである。この、乳児にありがちな行為に、母も特別の意味を持たせた。「この子は自己主張の強い子だ。将来偉物(えらぶつ)になるだろう」と。

父母は共に控えめな人間だったが、祖父は目立ちたがりで、人前で何かをやって見せては、その驚く顔を見るのが好きだったという。芸人だった訳ではない。たとえば当時、日本に数台しか無かったというビクターの商標の如き蓄音機を購入し、あちこちに出かけて行っては、衆人に音盤を聴かせ「中に小さな人を入れてある」とうそぶいたという。自己主張が強く、一族郎党を束ねるカリスマ性もあった。

農業、不動産業、馬喰(ばくろう)、村議、興行師と荒っぽく手を染め、栃木駅近辺に広大な土地を所有し、町に映画館を何軒も開設する様な人物だった。

交番を建てたこともあるという。果たしてそんな公共物を寄贈出来たもんだろうか疑わしいが、その時の記念写真なるものが残っている。新築の交番の前で、警察関係者やお偉いさんと肩を並べ、紋付き袴姿で最前列に誇らしげに写っている。どこまで目立ちたがりだったのか。

艶福家で家を空ける事が多く、アイロンをかけた紙幣を財布に詰め、黒いソフトを被り、常にバリッとした格好で仕込み杖まで携えて闊歩したというから、只者でないと言えば確かに只者ではない。常軌を逸した俗物としか思えないが、当時の価値観では偉物だったのだろうか?

ともあれ父母は血筋に期待して隔世遺伝と決め込み、我が子の将来に夢を託したに違いない。ま、期待外れで申し訳なかったが、人前で何かをやって見せる仕事には就いた。

父は大人しかったが、時々真面目な顔で冗談を言ったり、人をからかったりすることもあった。時、秋の昼下がり。所、生家の縁側。いたずらっぽいちっこい目で庭を眺めながら、久しぶりで帰省した息子に語りかける父。
「実はお前のこと、危うく始末するところだったんだ」
「へええ、え?危ねえ危ねえ!本当かよ?」
「ああ……」
「只者じゃないって期待されてたんじゃないの?あ、そか、僕を妊娠した時おふくろは四十五歳だったから、いわゆる恥かきっ子って訳で、お袋が恥ずかしがったんだな?」

「そだ」
「おまけに、超の字を付けたくなるほどの子沢山。いくら娯楽の少ない時代とはいえ、子作りに励み過ぎたよね」
「そだ」
「全然反論しないね。僕って望まれて生まれてきた子じゃないんだ。うわあ、ぐれそう!」
「でも産んでおいてよかった………」
「そんな取って付けた様に。で、なんで産むことにしたの?」
「区切れのいい人数だったから」
「そりゃ又ささやかな根拠だね」
「………ほんとは、落ち込んでるのを見るのが辛かったんだ」

この一言には重みがあった。母が、長男を戦争で亡くしたショックから立ち直れずにいた時期だったというのである。海軍の志願兵だった兄は「鳥海」という戦艦の機関砲手で、フィリピン沖で撃沈されたのだが、届けられた木箱の中には戦死を報せる紙切れが一枚入っていただけだった。母は一年経っても、時折木箱を抱いては泣いていたという。その心の傷を癒すのに、生まれ変わりとしての末っ子の誕生が必要だった。母は僕の誕生をキッカケに明るさを取り戻したというが、跡取りの死は父にとってもショックだったに違いなく、母と同じ気持ちであったろう。

僕は戦後生まれだから、戦死した長男の顔は写真でしか知らない。
祖父の名は善蔵、父の名は善作、戦死した兄の名は善一郎と、代々その名に「善」の字が入っている。字体も意味も好きだし、生まれ代わりなら「善哉(よしや)」とでもつけてくれれば良かったのにと思うが、僕に付けられた名は「利夫」(本名)と平凡である。姉の元子の案だったそうだが、なあに自分が好意を寄せていた男性の名前が口をついて出たまでだそうで、随分いい加減な命名ではあったが、両親にとっては名前など二の次だったのかもしれない。

「望まれない子どころか、お前は待望の子だったんだ………」
真顔の父の横顔に目頭が熱くなるのを覚えた。
「演劇は面白いか?」
「うん」

劇団の研究生になったばかり、まだ親に小遣いを貰っていた頃である。「人前で何かをやって見せる者になるだろう」この道は、父の望んだ道でもあり、中途で挫折するわけにはいかない、と改めて思った。劇薬を盛ったのは、もしや父ではなかったか?

僕は十五人兄弟の末っ子として、栃木県の農家に生まれた。ジョークではない。十男五女。そう十男坊なのである。笑うっきゃないほどの子だくさんだが、父、古川善作、母キンの十男。戸籍上そうなっている。

「昭(しょう)ちゃん」で「じゅうなん」を漢字変換しようとしたら「柔軟」としか出ない。「昭ちゃん」は愛用のパソコンの愛称。たくさんいる兄弟の誰とも公平につきあうべしという信条から、電話嫌いで連絡が取りにくく、もっとも疎遠になりがちな兄の名を付け、パソコンを開くたびに思い出すという仕掛けにしてある。思い出しては電話してみるが滅多なことではつかまらない。当方より出向けば家に居ることは居る。兄の名は「昭市」で、子供の頃から昭ちゃん、昭ちゃんと呼んでいた。

「じゅうなん」を「十男」に変換しないのは、今時それほどの子だくさんはあるまいと「昭ちゃん」が勝手に判断したか、と大笑いしたが、試してみると九男は変換する。十一男も変換する。一夫多妻の国でもあるまいに三十男も百男も変換する。どういう訳か十男だけ変換しない。「柔軟に対応しろ!」とオヤジギャグを放ったがパソコンは沈黙を守ったまま。昭ちゃんの性格が「昭ちゃん」に伝播したらしい。

目立ちたがりの僕と違い、昭ちゃんは幼少の頃から寡黙で自己主張が少なく、その上、他者を思いやるという美徳を備えていたように思う。僕は祖父に似たが、兄は父に似たのだろう。
「栴檀(せんだん)は双葉より芳しい」という諺があるが、兄のはそれを越えて、「人目につかぬ場所に、芳香を放ちひっそりと咲く野の百合」の如き存在に思えた。ちょっと誉め過ぎか。

それに比べて僕は、ドクダミは双葉よりクサい演技で人の気を引く目立ちたがりで、自己主張激しく鼻持ちならぬ雑草の如き子供だった。
生家の周りに生い茂っていた、抜いても抜いても消滅しないドクダミ。十字花弁の白い可憐な花をつけるが、その葉は強烈な臭いを放ち、地中に残った地下茎の切れ端からでも再生復活する、逞しい生命力を持つ雑草だ。

兄弟が多いと、親の愛情の争奪戦は元より、様々な局面で競争を強いられる。大仰な言い方をすれば生存本能を刺激し続けられるのだ。僕は子供心にいつも目立たなければならないと思っていた。兄姉の誰よりも多く親の愛を受けるべくドクダミと化した僕は、日々、様々なあざとい手段で親の注意を喚起したのである。大奥で、上様の寵愛を独占すべく権謀術数を巡らす側室達の如き修羅場を展開した。とりあえずは親の前方、視界に立つことである。

「どうしてお前はそう人の前、人の前と立ちたがるの?」と迷惑がる母の表情からさえ、憎からず思っている微笑を読みとり、計算づくで更にまとわりついた。

そんな僕を、母もよくからかった。五歳くらいだったろうか?母と散歩している時である。突然僕の手をふりほどき母が駈け出した。そして二十メートルほど先でくるりと向き直ってかがみ「ここまでおいで」と挑発するのである。やっと追いつくと、途端に又駆け出す。そして挑発する。僕が泣き出すまで繰り返すのである。すると今度はバナナを取り出し、又「ここまでおいで」としつこく続ける。頑是無い幼児になんたるしうち。よく素直にここまで育ったよ。

やっとのことでバナナを手にすると、今度は僕の逆襲が始まる。バナナをくわえたまま居眠りのフリを始めるのである。あっちにヨロヨロこっちにヨロヨロ。当時は砂利道だったことも含め、家の前の道でのこの場面は鮮明に記憶している。
「危ない!」と制止する母の手を振り払って続ける。そのうち、本当に睡魔に襲われ、真実眠りに入る。バナナをくわえ、立ったまま寝ていたと言うから、ガキの頃は確かに只者ではなかった。したたかこの上ないガキだったのである。母は居眠り病ではないかと心配になったと言うが、「ここまでおいで」で疲れちゃったんだっちゅうの!

長男の生まれ変わりにして末っ子、これは過当競争下にあっては、有利な条件と言える。子供心に親の愛を一心に受けているという自負も実感もあった。目立つことにかけては負けない。本能のおもむくままに、僕は増長して行った。真に芳しくない子供だったのである。
 人前で臆するところがなく、天真爛漫、自信満々、明朗快活、軽佻浮薄、ご近所に結婚披露宴でもあろうものなら、ここぞとばかりに出しゃばって、得意満面、大人びた芸を披露しては喝采を浴びる。歌、踊りはもとより、落語、浪曲までこなしたというからあきれる。激しい生存競争の中、順調に、鼻持ちならない目立ちたがりの子供へと育っていったのだろう。

某演劇書によれば目立ちたがるとは本来人間に備わっている歌舞く願望であり、読んで字の如く、人は誰しも本能的に、人前で歌い舞うことに快感を覚える、とある。家庭環境の故に、歌舞く願望のとりわけ顕著な子供に育ったということか。

広辞苑には、かぶくは「傾く」であり、@かたむく。頭を傾ける。A常軌を逸する。自由奔放にふるまう。B異様な身なりをする。人の目につく衣裳を身につける。C歌舞伎をする、とある。なるほど、思い当たる節が幾つもある。

●以上は、以前に上梓した拙著【劇薬処方箋】(演劇雑誌「テアトロ」のカモミール社・刊)の冒頭部分です。声優を生業とするまでの来し方を赤裸々に綴った自伝エッセー。ご興味を持たれた方、ご一読頂ければ幸いです。在庫切れの場合は tfc@topio.jp までお問い合わせください。